書くことは、呼吸をすること。
ー碧月はるーHaru Aotsuki
日々、想いごと

【何があってもこの年まで生きてきた自分の生命力を、私はどこかで信じている】

Twitterのアプリを、スマホからアンインストールした。Twitterを開くだけで、もっというなら、あの青い鳥のマークを見るだけで、心臓が急ぎ足になってしまうようになった。その時点で閉じればいいものを、「また何か言われているんじゃないか」という恐怖心に負けてしまう。だから、消した。

「見ない」

たったこれだけのことが、こんなにも難しいだなんて知らなかった。

SNS上でのいじめが社会問題になって久しい。「見なければいいんだよ」と簡単に言う前に、「怖いからこそ見てしまう」という人間の心理をまずは理解してあげてほしいなあと思う。とはいえ、今のところ他に有効な手段もないので、どうしたって自衛するしかない。

ストレスがかかると、解離の時間が増える。やれやれ、困ったものだとため息を吐きながら、人の心と機械とを重ね合わせた。容量がいっぱいになると動作が遅くなる。ショートすると強制終了する。心は機械じゃないし、機械は心の代わりにはなり得ない。でも、不思議とよく似ている。

嗚呼、これが心というものなんだな
今、目覚めたよ
想像していたよりも
ずっと重くて複雑で

ACIDMAN『2145年』

ACIDMANの『2145年』が脳裏をよぎる。「心はいらない」と泣いた“君”が、きっと世界中にあふれている。

文章を書いているうちに、ささくれだった心がなだらかになっていく。しかし、そこに間髪入れずに次のジャブが飛んでくる。週刊少年ジャンプなら、読者が飽きることなく楽しめる展開なのかもしれない。しかし、なにぶんこちらは生身の人間で、コンテンツを生み出してはいるものの、私本人はコンテンツではなくて、だからいちいち、ぐっと息が詰まってしまう。

書いて鎮める。さされた後ろ指に貫かれる。
ひたすらにこの繰り返しで、とうとうターンオーバーが追い付かなくなった。新しい皮膚が生まれる前に飛んできた石は、軽々と内臓に食い込む。目に見えない傷痕は、そのわりに驚くほど生々しい。

“だから大人しく我慢していればよかったんだよ”

そんな声が聞こえてきて、でもそんなことは、本当は誰も言っていなくて、内側から聞こえてくる声は私自身のものだった。物事が大きく膨らんで、騒ぎだけが続いていて、もっとも届いてほしいはずの思いや言葉は一向に届かない。だからきっと多くの人は、じっと黙ってしまうのだろう。昔の私みたいに。父親が言った「誰にも言うな」を忠実に守っていた、「言ったらもっと酷いことが起きるぞ」を信じきっていた、私みたいに。

Twitterで繋がっている人たちのことは、変わらずにすきだし大事に思っている。ただ、今の私は、あの場所でやさしい言葉を紡げそうにない。石を投げられたら投げ返したくなってしまう。好き放題言われていたら、「そうじゃない!」と叫びたくなってしまう。「しまう」と書いたけれど、別にそれが悪いことだと思っているわけではない。むしろ逆で、反撃は正当な権利だと思っている。何もされていないのに掴みかかるのは違うけど、己の尊厳や大事な人を守るためなら、声を上げる権利は誰しもにあるはずだ。

ただ、それを見ている人たち、特にやさしい人たちほど辛くなってしまう現実を思うと、ぐつぐつと煮えていた怒りがぷしゅうと萎んで、熾火のようなちらちらとした燃えカスだけが残る。それをじっと見つめていると、段々わからなくなる。

――私は一体、何のために、誰のために、何を伝えたくて文章を書いていたんだっけ。

一番大事なはずの核が、崩れる手前でどうにか形を保っている。それはもう絶対的に、誰かの悲鳴を見て悲しくなったり痛くなったりしてしまう、やさしい人たちのおかげであって、そういう人たちに支えられて、守られて、私はこの2年半書き続けてこれたのだと思い至った。

エッセイを多く書いているから、当然といえば当然だが、私の文章はよく揺れる。前を向いたり、後ろを向いたり、横を向いたり、斜めを向いたり、幼子のように忙しい。子どもの頃、揺れることを許されてこなかった。そのぶんを取り戻すかのように、私は私の感情を味わい、文章という形で表に出し、自分という人間にもちゃんと心が在った事実をまざまざと見せつけられている。

心は、“想像していたよりもずっと重くて複雑で”、ひどく扱いにくい。だからこそ、子どもの心のハンドルを、大人がむやみに奪わないほうがいい。失敗しても転んでも、自分で少しずつ操縦の仕方を覚えさせたほうがいい。大人になってから突然ハンドルを渡されても、うまく乗りこなせないのだ。

心は、きれいなだけじゃない。人によるのかもしれないけど、少なくとも私のなかには、とても醜い、化け物のような感情が眠っている。過去の置き土産なのかもしれないし、元々私のなかに住む固有のものであるのかもしれない。どちらにしろ、私はその化け物を飼いならすのに必死で、未だに仲良くできないし、うまく手を繋げない。困ったなあ、と思う。でも、それも含めて自分なんだよなあ、とも思う。

時々、とても心がきれいな人のように思われることがある。でも、そうじゃない。虐待を無くしたいと強く願うのは、自分が死ぬほど苦しかったからだ。あんな地獄はもうたくさんで、もう誰にも味わってほしくないと、そう思うしかないような過去があった。ただ、それだけだ。私が立派な人間だからとか、そういうことじゃない。でも、そのためにできるだけ言葉を丁寧に紡ぎたいとは思っている。投げつけるように叫んだ声は、大抵誰にも届かない。耳を塞がれ、空を漂い、だらしなく地面に落ちる。それを拾ってまた投げても、同じ結果しか生まない。それじゃあ、意味がない。

どうしたら届くだろう。どうしたら読んでもらえるだろう。どうしたら知ってもらえるだろう。どうしたら一緒に考えてもらえるだろう。

ずっとそうやって、脳内を掻き回すように考え続けながら書いてきた。これからもきっと、そうだろう。考え、向き合い、泣いたり叫んだりもがいたりしながら、少しでも明るい未来をつくりたい。今現在の自分にとっても、過去の私のような子どもたち、大人たちにとっても、明るく、すこやかな未来を切望している。

私はきれいな人間じゃないし、決して強くもない。苦しみが限界値に達するたび、心が最悪の決断へと引き寄せられることも否定しない。それでも、私は今も生きていて、こうして文章を書けるくらいにはしぶとい。何があってもこの年まで生きてきた自分の生命力を、私はどこかで信じている。だから、私を心配してくれる人たちにも、私の生命力を信じてほしい。こう見えて、昔から無駄にしぶといのだ。

文章は推敲できるから、言葉を丁寧に選ぶことができる。長文であればあるほど、深く深く潜り、言葉の海をちゃぷちゃぷと漂いながら、一つひとつ時間をかけて拾い集めることができる。衝動で発した言葉を、悪いものだと言いきりたくはない。生身の人間として生きている以上、そういうどうしようもない感情が表に出てしまう日もある。ただ、それ一辺倒にはならないようにしたい。そのためにも、今はちゃんと心を休める必要がある。

Twitterをやめるつもりはない。noteもやめない。自分が必要だと感じるぶんだけ、お休みをする。それだけの話だ。文章は書く。インスタに写真も載せる。仕事もする。そう、何より私は、仕事をきちんと責任を持ってこなしたいのだ。生きていくために、息子たちを守るために、望んだ生き方を手離さないために。

くだらない石つぶてに負けて、大事なものを手離すなんていやだ。諦めたくない。「書いて生きる」道以上に、最初に掲げた信念を、私は曲げたくない。

何のために、誰のために、何を伝えたくて文章を書くのか。

それを見失ったら終わりだ。だから私は、理不尽に攻撃してくる不躾な誰かのために、一文字だって使ってなんかやらない。人生は有限で、言葉は選ぶためにあって、私は「盾」となる文章を書きたいと願っていたはずだった。「矛」が不要だなどとはまったく思っていない。でも私には、扱いきれそうにない。内側に住む化け物と手を繋げるようになるまでは、少なくとも私には、「矛」は手に余る。

たくさんの人が教えてくれた。親が教えてくれなかったあらゆるものを、本当の“温もり”を、他人である人たちが必死に伝え続けてくれた。そこから身に着けたものをアイデンティティにして、私は生きていきたいし、これからも書いていきたい。

揺れる心は健在で、明日の天気は明日がこなければわからない。でも私は、きっと明日も、何だかんだで書いている。

ABOUT ME
碧月はる
エッセイスト/ライター。PHPスペシャルにエッセイを寄稿。『DRESS』『BadCats Weekly』等連載多数。その他メディア、noteにてコラム、インタビュー記事、小説を執筆。書くことは呼吸をすること。海と珈琲と二人の息子を愛しています。