母のことを、少しずつ書いていこうと思う。
私の母は、貧しい農家の家に産まれた。昔の農家は機械貧乏で、その生活は楽なものではなかった。漬物だけがおかず。そんな日の方が多かったらしい。味噌をつけて米を食べるのが常だったと聞いた。
働かなければ生きていけない。農家であるからには、田畑を耕して作物を育てなければ生活が成り立たない。
ハイハイする赤ん坊を預ける先もない。そこらへんに置いて仕事をするわけにもいかない。そんな生活環境の中で祖母が取った選択肢は、今の社会ならば確実に捕まるであろうものだった。それでも、その選択が見咎められることはなかった。何故なら、周りの親戚や近所の農家さんたちも同じようにしながら田畑を耕し、生きていたからだ。
家の柱の前に赤ん坊である母を座らせる。腰のあたりをロープで縛る。柱に巻き付ける。30分毎に、様子を見に行く。
これが、母が赤ん坊の頃の日常だった。
家の柱に縛り付けられて、日の大半をそこで過ごす。自由に動くことも抱かれることもなく、おそらく泣くことも途中から彼女は放棄したのだろう。そうして畑仕事を手伝える年頃になるまで、玄関のたたきを見つめ続けるしかない毎日を母は生きた。
生きるって、何なのだろう。心臓が動いていれば、生きていると思っていいのだろうか。
祖母を責める気持ちがゼロかと問われれば、素直に頷くことは難しい。しかし、生き延びる為に働いていかねばならなかった生活を思うと、簡単には責められないところもある。
今のような情報化社会ではなく、戦争が終わっていたとはいえ、まだまだ生活そのものが厳しい時代。インターネットどころか、おそらくワープロさえ存在していなかった。
畑仕事は中腰を延々と続ける作業だ。おんぶしながらやり続けるには、限界もあっただろう。祖母は、身体が丈夫な人ではなかった。
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私は、母が私にしたあれこれを許すつもりはない。許せる日がいつかくるかもしれないけれど、それは誰にも強制されたくない。”許し”を他人に強制される筋合いなんてない。
それでも思うのは、母はカラカラに渇いていたのだろうということ。渇いて渇いて、でもそれに気付くことすら許されない。そんな中で生きてきた彼女のこれからの日々が、少しくらい潤いに満たされたものであって欲しいと願う。
「仕方なかったのよ」
昔話を聞かせてくれた時、母はそう漏らした。それはきっと、彼女自身がずっと自分に言い聞かせてきたであろう慰めの言葉だった。
ふざけんな。”仕方ない”なんかで済ますなよ。
ちゃんと怒れよ。
そう思ったけれど、口には出さなかった。
渇ききってヒビ割れたコップに水を満たしてくれる人がパートナーだったら、母も少しは違う生き方ができたのだろうか。
互いにヒビだらけのコップを叩き割るのに忙しい二人が夫婦になってしまったものだから、こちらも相当な割を食ってしまった。
私は”仕方ない”なんかで済ますつもりはない。母の日に花を贈る気にもなれないし、父の日に感謝のメールを送る気にもなれない。
それでも、柱に繋がれた当時の母を抱きしめてあげたいと、ほんの少し思ったりもする。
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こちらのエッセイは、noteに公開している作品をリライトしたものになります。noteで週に3~5本程度、エッセイ、小説を執筆しています。よろしければそちらも合わせて読んでいただけたら、とても嬉しいです。