書くことは、呼吸をすること。
ー碧月はるーHaru Aotsuki
日々、想いごと

「アンナチュラル」な人々

米津玄師の主題歌が話題となった、『アンナチュラル』というドラマが好きだ。

石原さとみ主演。井浦新、窪田正孝、市川実日子も好演しており、特に実力派の井浦新の演技は素晴らしかった。

法医解剖学を軸に様々な事件を解明していくストーリーは、緊張感を伴いながらもラストは爽快な解決を見せる。中には爽快と言い切るには抵抗がある話もあるが、そこも含めて魅力的だ。生きていれば痛快な解決の仕方で物事を終えられることばかりではない。後味が悪いときもあれば、救いがないことだってある。そのリアルさが、私は好きだ。

芸術というのは好みが別れるものだし、ドラマや映画にしろ小説や音楽にしろ、自分のフィーリングに合うものを選んで、合わないものからはそっと離れればいい。否定したり嫌ったりをわざわざ口にする必要性を全く感じない。例えば本なら合わなければ閉じればいいのだし、音楽なら止めればいい。そして、合うと思ったものへは惜しみない愛情を示せばいい。

井浦新演じる中堂さんが法廷で吐き捨てた台詞が、今でも忘れられない。

「ふざけるな。女は信用できないなどお前がクソ小せえこと言ってるから俺が駆り出されたんだよ。人なんてどいつもこいつも、切り開いて皮を剥げばただの肉の塊だ」

聞く人が聞けばとんでもない暴言だと騒ぎ出すかもしれない。でも、これは真実だ。人なんてみんないつかは死ぬし、死んだら等しくそれぞれの家庭のやり方に添って肉体を葬り、最後は無になるのだ。

女だの男だの。偉いだの偉くないだの。くだらないカテゴライズも生きている間だけのものだ。そんなものに左右されたり上下を付けて見下したりしているうちに、あっという間に命の灯火は尽きる。

自分が死ぬとき、誰と何処にいるのだろう。

海辺の街がいい。誰かが隣にいたら、もっといい。でも、潔く一人きりというのも悪くない気もする。

息子たちは息子たちの人生を自由に生きていてほしいし、たまに顔が見られて声が聞けたらそれでいい。大人になった彼らと一緒に住むのは絶対にごめんだ。年老いた親の面倒を見せるために産んだわけではないし、目の届くところにいたら幾つになってもあれこれと口を出して嫌われてしまいそうだから。

いつか私がただの肉の塊になる時、ちょっとだけ涙を流してくれたら、それで充分だ。

小さな子どもでもないのに、嫌いなものに囲まれて感情の動かない人の傍らで生き続けることが正しいだなんて、私には到底思えない。

アンナチュラルの主題歌である『Lemon』で歌われているような、そんな誰かの隣でいつか事切れるならば、この上なく幸せだろうと思う。その時自分がどんな状況で、どんな人間で、周囲にどんなカテゴライズをされていようとも。

自分自身のことほど分かっているようで分かっていない人が多い、この世の中。人の本質なんて、その人のことを愛している人が一番分かっているものだし、本人がどんなに”自分はだめだ”と思っていても、傍らにそういう人がいる限り”だめ”なんかじゃない。

恋人の愛でも、友人の愛でも、親子の愛でも。種類なんかどうでもいい。異性か同性かもどうでもいい。

世界に独りきりの人なんて居ないし、スーパーのおばちゃんでも海辺で毎日会うお散歩好きのお兄さんでも、必ず人は人の人生に交錯している。そして、何らかの痕を残す。その痕が深ければ深いほどに、その相手のことは刻まれるものなのだろう。良くも、悪くも。

色々なものを抱えて、今日も明日も生きていく。アンナチュラルに感じることも、全部終わってしまえばきっと、ナチュラルなものになる。

こちらのエッセイは、noteに公開している作品をリライトしたものになります。noteで週に3~5本程度、エッセイ、小説を執筆しています。よろしければそちらも合わせて読んでいただけたら、とても嬉しいです。

ABOUT ME
碧月はる
エッセイスト/ライター。PHPスペシャルにエッセイを寄稿。『DRESS』『BadCats Weekly』等連載多数。その他メディア、noteにてコラム、インタビュー記事、小説を執筆。書くことは呼吸をすること。海と珈琲と二人の息子を愛しています。