書くことは、呼吸をすること。
ー碧月はるーHaru Aotsuki
アダルトチルドレンからの再生

誰かのサンドバッグになっても、私もその”誰か”も幸せにはなれない。

分厚く空を覆う雲から、突然スコールのような雨が降りだした。車のフロントガラスを勢いよく叩きつける雨粒を見ているのは、案外嫌いじゃない。

コンビニの駐車場で小さな粒の踊る様をぼんやりと眺めながら、受話器から漏れ出す甲高い声をうんざりしながら見つめた。受話器を耳に当てる必要なんてない。声量も音量も充分過ぎるこの人との通話は、耳に当てる部分が鼻にくるくらいで丁度良いのだ。

いつだって自分の言いたいことだけを言って、こちらの話は聞こうともしない。昔からそうだ。私は娘なのに、この人に甘えた記憶が全くない。
母親という存在は、私にとって甘える対象ではなく、気遣う相手だった。物心ついた頃から、ずっと。

文章で自身の想いを書くようになり、自分の内面と向き合う時間が増えた。今まで漠然としていた輪郭がくっきりと、鮮明に浮かび上がってきたように思う。また、書くことにより過去が少しずつ昇華されていることにも気付きはじめた。

書く行為と共に、読む行為も増えていく。そのなかで、他人の人生やその日の気持ちを、ほんの少し垣間見る機会も増えた。独りきりだと思っていた道のりは、案外そうでもないことを知った。

みんないちいち口に出さないだけで、実際は色々ある。

そんな当たり前のことに、改めて気付いた。

私の母は、いつだって自己主張が先にくる。60歳を過ぎても尚こんな話し方しか出来ないのは、きっとまだまだ渇いているのだろう。足りない、足りないと、もがいているのだろう。そのままの母を受け入れて、「あなたは充分頑張ってきたよ」と肩を叩いてくれる人が居ないのだろう。

私はどうしても彼女にそれが出来ない。娘として”甘えたかった”、”助けて欲しかった”気持ちが拭いきれない。何一つ期待なんかせず、ありのままの母を受け入れて抱きしめるだなんて、いつか本当に出来る日がくるのだろうか。

「少し落ち着きなよ」

かろうじて絞り出した一言に、母は更に噛みついて吠えたてた。キンキンと響くその声を聞きながら、うんざりとフロントガラスを見上げた。雨粒がリズミカルに踊っている。大きな雨音が母の怒声を僅かながらに掻き消してくれる。この人と話すのは、やはり雨の日に限る。

自分の夫を制御出来ないやるせなさ。自分が粗末にされている怒り。娘が分かりやすく距離を置いている今のスタンス。全てが気に入らないというのは建前で、きっと本音は寂しいのだろう。

人が攻撃的になるのは、きまって自分が寂しい時だ。そういうところが私は母にそっくりで、その遺伝子的な要因を見つけるたび、心が嫌な音を立てる。

寂しくて心が不安定で攻撃的になっている人が、母じゃなくて他人だったら、きっと私は親切にすることが出来る。どうしたらその人が楽な気持ちになれるのか、寄り添って考えることが出来る。それはきっと私が、その相手には良い意味で期待をしていないからなのだろう。こうあって欲しいとか、こうあるべきとか、そういう理想像を人に押し付けるのは好きじゃない。何故なら、私自身が押し付けられることが大嫌いだから。

でも母へはきっと、無意識に押し付けているんだろう。私は彼女に、『世間でよく見る母親』になって欲しかった。風邪をひいたら心配してプリンを買ってきてくれるような、優しく頭を撫でてくれるような、そんな母であって欲しかった。

過去を許すか許さないかの話ではなく、理想の母親の姿への執着を手放すことが出来れば、今よりも楽に生きられるような気がする。

どんなに求めても手に入らないものは、思いきって諦めてしまおう。今さら何をどうしたって母に甘えられるわけでもないし、彼女が私という人間を理解出来るわけでもない。むしろ私以上に甘えることを欲しているのは彼女の方だ。

共依存になる可能性を孕んでいる以上、私はあくまでも母とは距離を取り続ける。私が彼女の受け皿になることで、共倒れになる可能性のほうが圧倒的に高い。

母がこの先の人生をどう生きるかは、彼女次第だ。私に出来ることはほとんどない。私のキャパシティは、残念ながらそんなに広くない。

理想を手放して、私は私のこれからを生きていけばいい。電話も出たくないときは出ないし、今日みたいに喚きはじめたら無言で切ってしまえばいい。

誰かのサンドバッグになっても、私もその”誰か”も幸せにはなれない。それはきっと、親子に限らず夫婦にも他人にも言えることだ。

人は人に寄り添うことが出来る。でも変えることは、きっととても難しい。特に、血縁者や親子であればこそ。

自分を変える。そのための一歩を踏み出すことは、いつだって本人にしか出来ないのだ。

通話を終えて見上げた先には、青空が広がっていた。フロントガラスはずぶ濡れだったけれど、それも少し経てばちゃんと乾く。

「大丈夫だよ」

その一言だけ。それだけは、今度気が向いたら伝えてみようと思っている。

母の為ではなく、私自身の為に。

◇◇◇

こちらのエッセイは、noteに公開している作品をリライトしたものになります。

現在、私は両親と一切の連絡を絶っています。しかし、このnoteを書いた2019年頃は、最低限のやり取りを電話にて続けていました。
記事本文でも書いた通り、自分に無理を強いてまで相手と関わる必要はないと私個人は思っています。

親子というものは、無理をして続けるものではない。自然と互いが求めあい、関係性を丁寧に育んでいくものであってほしいのです。親子だからと苦痛であっても何でも我慢すべきという考えに、どうか囚われないでほしいです。

noteで週に3~5本程度、エッセイ、小説を執筆しています。よろしければそちらも合わせて読んでいただけたら、とても嬉しいです。

ABOUT ME
碧月はる
エッセイスト/ライター。PHPスペシャルにエッセイを寄稿。『DRESS』『BadCats Weekly』等連載多数。その他メディア、noteにてコラム、インタビュー記事、小説を執筆。書くことは呼吸をすること。海と珈琲と二人の息子を愛しています。