書くことは、呼吸をすること。
ー碧月はるーHaru Aotsuki
HSC(ひといちばい敏感な子)の子育て

握り潰されたら、蝶々は飛べなくなるから。

「出来ない!ちゃんと出来ない!!」

塚本晋也監督作品、『KOTOKO』という映画の中に出てくる台詞だ。

Cocco演じる主人公の琴子が、片手に赤ちゃんを抱きながら料理をしている場面がある。その赤ちゃんは、声の限りに泣き叫んでいる。泣き声に急かされながら、必死にフライパンを振る琴子。あと少しで料理が完成というところで、糸がぷつりと切れたかのようにフライパンを壁に投げつけ、こう叫ぶのだ。

「ちゃんと出来ない!」と。

育児をしてきてこの感情を持ったことのないお母さんは、多分100年ほど修行を積んだ仏様くらいだと思う。

”こんなはずじゃなかった”

理想としていた母親像からかけ離れた自分。思い描いていたものとは180度違う子育ての現実。そういったものを無理矢理直視させられる場面というのが、必ずある。そしてその数は、想像よりもずっと多い。そういう時、壁にフライパンを投げつけて叫ぶことが正しいなんて思わないが、そうしたくなる気持ちは痛いほど分かる。本当にぎりぎりなのだ。色んなものが。

個人差や環境の違いが大きく、一人一人のお母さん(お父さん)たちが全く違う取り組み方をしている毎日を、『子育て』というざっくりとした括りで一つのカテゴリーに分類される。

多分みんな子どもを産む前は、笑顔で我が子を抱いて微笑んでいる自分を想像するのだろう。よくCMなどで見かけるあの光景だ。たしかに、そういう瞬間もある。その時に感じる多幸感は言い様のないもので、そこを否定するつもりはさらさらない。

ただ絶対的に言えるのは、そこだけではないのが育児だ。毎日毎日眠れず、トイレすら一人で入ることも叶わず、食事は立ったまま掻き込む冷めた残り物。やりたいことを始めようと思った瞬間に泣かれる。あと少しで終わりそうだった仕事をゼロどころかマイナスにまで戻される。そういったことが当たり前に繰り返される毎日でもある。

もちろん個人差はある。大人しい子は大人しいし、よく眠る子もいる。一人一人全く違うというのは、その部分も大きい。

しかし一番は、やはり環境だろうと思う。

「ちょっとお願い」

そう言える人が、周りにいるかどうか。旦那さん、両親、親戚、兄弟、友人。誰か一人でもこの台詞を言って甘えられる相手がいるかどうか。おそらく、ぷつりと何かが切れてしまう確率を圧倒的に上げている要因は、この「ちょっとお願い」を言う相手が一人もいないという環境にある。

全部自分がやらなきゃいけない。全部一人でやるしかない。
だって、親なんだから。

そう思っている人が、未だにたくさんいる。

行政のサービスもあるが、有料のものは結局、経済的に余裕のある人しか使えない。納豆すら買うのを迷う状態で、自分が息抜きをする時間を買うことは現実的に不可能だ。

私は経済的には、息抜きをする時間を買うことが可能な世帯だった。しかし、家族や周りがそれを許さなかった。『小さいのに預けるのは可哀想だから』という理由だった。
”仕事でもないくせに、息抜きをしたいからだなんて甘えている。贅沢だ。可哀想だ。望んで産んだんだろう。”

回らない頭で必死に考えた。せめて3時間続けて眠りたいだけだった。起こされずに、続けて眠りたい。たった一杯で良い。冷めない珈琲をゆっくりと飲みたい。そう思うのは、贅沢なのか。

今の私なら「ふざけるな」と言い返すことも出来ただろう。しかし当時の自分に、そんな余力は残されていなかった。

ひたすらに泣き喚く眠らない我が子を、半ば放心状態になりながら抱き続けた。昼も夜も、晴れの日も雨の日も。

少しずつ自分が削られていく。笑えなくなっていく。感情が緩やかに削ぎ落とされて、私は最終的に食事を全く受け付けなくなった。

10キロほど体重が落ちた頃、ようやく気が付いた。

私を救わないと、この子も死んでしまう。

自力で病院を調べて診察に行き、『産後うつ』の診断を受けた。入院を薦められたが、子どもを預けられる人が一人も居ない私には、不可能な選択肢だった。薬を処方され、「くれぐれも無理はしないように、周りに助けを求めるように」と言われた。

私が無理をしなければ、誰がこの子を見るのだろう。助けを求める相手がいない私は、誰に「助けて」と言えばいいのだろう。

声を押し殺し、それでも堪えきれずに泣きながら運転した。ハンドルにぼたぼたと滴る水滴は、何の慰めにもならなかった。後部座席では息子が狂ったように泣き喚いていた。彼はチャイルドシートが嫌いで、身体を固定されるのが嫌いで、車に乗っている間中泣き続けるタイプの子どもだった。

こんなときでさえ、息子を預ける「誰か」が私には居なかった。私が特殊なわけじゃない。そういう母親が、日本中だけでも相当数いるのが現実だ。

その日の夜中、旦那の隣で眠っている息子を置いて、車で海に行った。シートを倒し、毛布にくるまって眠った。目が覚めたら朝だった。私はその日、息子が産まれてから初めて、続けて3時間眠った。息子が産まれて、1年と3ヶ月が過ぎていた。

ちゃんと出来ない。

そんなの、当たり前だ。経験のない世界に飛び込んで、教科書らしきものはあれど、我が子がそこに記されているタイプに当てはまらない以上何の役にも立たない。

ぎりぎりのところにいる人は、まずはそれを自覚することから始めよう。自分に厳しい人ほど、限界を越えてまで頑張ろうとする。そして、ぷつりと壊れてしまう。

周りに頼ることは格好悪いことなんかじゃない。誰もいない人は、まずは市役所の子育て支援課に連絡をしてみて欲しい。児童相談所でも相談に乗ってもらえるはずだ。そもそも児童相談所は、虐待を防ぐために設置された機関なのだから。虐待被害にあった子どもを保護することがメインのように思われているが、それは違う。機関名が示す通り、「児童に関する相談をする所」だ。何かが起きてからではなく、何かが起きる前に相談していいのだ。相談した結果、担当者との相性が合わない場合もある。そういうときは無理に我慢せず、担当者替えを申し出ていい。遠慮したり気遣ったりしている場合じゃない。まずはあなたの心身を守らなければ、誰のことも守れない。

たった数時間。たった1日。あなたがあなたの時間を確保出来たら、壁にフライパンを投げつけることは無くなるかもしれない。その為に全力で自分を守ることは、悪いことなんかじゃない。

私がしたことを『育児放棄』だと旦那は言った。母親失格だと言われた。それでも強制的にでも預ける相手がいるだけ、私はまだマシだったのだ。

今なら声を大にして言える。

私は、育児放棄なんかしていない。父親である人間の隣で我が子が眠っている間に仮眠を取っただけだ。それを育児放棄と言われるのなら、「父親」の役割とは一体何だ。

大きくなった息子は、何かと私を助けてくれる。想い、大切にしてくれる。

「おつかれ」

夜、次男坊の歯磨きまで終わって一息ついた時などに、何気なくそう言ってくれる。その度に思う。あの夜、逃げて良かったと。あと少しで私は、何よりも大切なものを壊してしまうところだった。

映画の中の悲鳴のような叫び声を、時々思い出す。あの当時、私は毎日思っていた。毎日、狂ったように叫びたくなった。だからこそ言える。

ちゃんとなんて出来なくていい。
完璧になんて出来なくていい。

あなた自身と、大切な我が子の命と心。
それより大事なものなんて、この世にはない。

「助けて」って叫んでください。

一人で抱え込んで、気が付いたら握り潰していた。そんなニュースを見るのは、もう嫌だ。

*映画『KOTOKO』は、私が大好きな歌手のCoccoが主演を務めています。個人的には、この作品の世界観は好きです。
ただ、かなり過激な表現や場面が多々あります。フラッシュバックが起こったり、見た後に気分が塞ぐ可能性は正直否定出来ません。
決して作品を否定するつもりはありません。「観ない方がいい」と言いたいわけでもありません。ただ、もしこのエッセイを読んで観てみようと思った場合、ある程度の覚悟を持って鑑賞した方がいいことは記しておくべきだと思いました。
最後まで読んでくださり、ありがとうございます。
あなたの明日が、少しでも深く呼吸出来るものでありますように。

こちらのエッセイは、noteに公開している作品をリライトしたものになります。noteで週に3~5本程度、エッセイ、小説を執筆しています。よろしければそちらも合わせて読んでいただけたら、とても嬉しいです。

ABOUT ME
碧月はる
エッセイスト/ライター。PHPスペシャルにエッセイを寄稿。『DRESS』『BadCats Weekly』等連載多数。その他メディア、noteにてコラム、インタビュー記事、小説を執筆。書くことは呼吸をすること。海と珈琲と二人の息子を愛しています。