書きたくて書いていたはずのものが、一瞬にして只の毒素の塊なんじゃないかと思う時がある。気楽に書いている時ではなく、フィクションの中にノンフィクションを織り交ぜた時なんかに。
伝えたいことがあって、その想いだとか願いが届くといいと思って書いていたはずなのに。これを読んだ人は、本当にほんの少しだけでも救われるのかな?とか。もっと直接的なメッセージの方が実際は役に立つのかな、とか。自分の中で思考がぐるぐる回り出すと、もう止まらなくなってしまう。
そういう時、私は一度何もかもやめて目を閉じる。携帯も見ない。本も読まない。その感情を人に話したりもしない。(そもそも実生活で自分の思考の深いところを誰かに話したりなんかしない。)
頭を空っぽに出来れば一番良いのだけど、それはとても難しいのである程度放っておく。考えたいから考えているのだ。そう思って勝手に気が済むまで考えさせてやる。
そうして心が凪いできたら、再び自分の欲する何かを手に取る。私は結局、『書くこと』を選ぶ。
どんなに苦しくても、どんなにぐるぐるしても、私は書きたい人間なのだと思う。内容を批判されることがあっても、後ろ指を指されることがあっても、それでもどうしても書きたい。
伝えたいことがある。それと同じくらい、きっと私は証明したいのだ。
「誰にも言っちゃだめだよ。人に話すともっと良くないことが起こるよ」
こういう種類の大人の発言には、全力で抗うべきだったということを。そして、私は「言っちゃだめだよ」と言われたことをSNSという媒体を使って大声で伝えて、それでも平気で生きているということを証明したいんだ。
何でか分からないけど、自分が悪いみたいに背中を丸めて縮こまって生きてきた。ばかみたいだ。
信用できる大人は、おそらく探せばちゃんといたのに。諦めていたから探さなかっただけで、多分ちゃんといたのに。
ばかみたいだ。
私は今夜も書くだろう。それがいつの日かどうにか『作品』になったら、私はほんの少しだけ、昔の自分を許そう。
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こちらのエッセイは、noteに公開している作品をリライトしたものになります。noteで週に3~5本程度、エッセイ、小説を執筆しています。よろしければそちらも合わせて読んでいただけたら、とても嬉しいです。