書くことは、呼吸をすること。
ー碧月はるーHaru Aotsuki
アダルトチルドレンからの再生

まだ息継ぎは下手くそだけど、とりあえずおにぎりを握ろう。

真っ黒な感情に呑まれそうになる時がある。そのほとんどが、過去に追いかけられている時だ。ひたすらに眠れなくて空を睨みながら朝を迎える。そういう時、手足がじんじんと痺れている。

過去は過去だ。もうとうに過ぎ去ったそれは、ただの記憶に過ぎない。記憶に追いかけられて息切れするだなんてバカげている。そう思いながらもいざ目の前にその記憶が現れると、途端に酸素が薄くなる。吸っても吸っても入ってこない。その苦しさは、薄い布を口元に押し当てられているときの感覚とよく似ている。

トラウマだのフラッシュバックだのと言われているが、専門用語は経験者以外には伝わりづらい。分かりやすく例えると、フラッシュバックは強制的な映画上映会のようなものだ。脳内のスクリーンが目の前に写し出される。そこに、自分が捨て去りたい記憶のフィルムが容赦なく再生される。吐きそうになる。というか、けっこうな割合で吐く。便器に向けて吐き出される吐瀉物に混じり、目からも体液が流れ出す。それなりに苦しいはずなのに、あまりにも数多く繰り返されてきたこの瞬間は、もはや私の日常でもある。

眠ることへの罪悪感は、だいぶ薄れた。眠ると怒られる。休むと殴られる。生まれつきショートスリーパーの遺伝子を持っていた私は、どんどん眠らない子どもになっていった。

今も、あまり眠らない。眠くないわけでも、疲れないわけでもない。それなのに、相変わらず眠りにつくことが極端に下手だ。自らの心身がよほど安定しているか、心から安心できる場所に居る時ならば、まれに深く眠れる。野生動物のようだ、といつも思う。

牙を剥き出しにして威嚇している時、必ず何かを恐れている。その何かが、過去なのか、現在なのか、未来なのか。分かっているくせに分からないふりをしたくなる。そんな自分が酷く滑稽に感じる。

こんな時まで、笑えない。そう思いながら、一人奥歯を噛みしめている。

ある著名な心理学者が言っていた。トラウマなんてものは存在しないのだと。感情は、己が決めているのだと。

では私は、自ら傷を掘り返したくて脳内上映会を不定期に行っているのだろうか。私はそれを、思い出すことを望んでいるのだろうか。あの地獄のような景色を?思い出すだけで胃液を嘔吐するほどに忌まわしい記憶を?

ふざけるな。そんなわけあるか。

思い出したい人なんていない。呪縛からの逃れかたが分からなくて、もがいているだけだ。望んでいるだなんて、そんな残酷な言葉で片付けるのは頼むからやめてくれ。

薬でもカウンセリングでも拭えない、人を愛したからといって消え去ることのない傷痕というものは存在する。少なくとも、私の中には。だいぶマシにはなった。これでも随分と生きやすくなった。しかし、痛みがゼロになることはない。

時々こうしてむくりと起き上がる真っ黒いものに、全身を支配されそうになる。息が浅くなり、目の前がぐらりと歪む。何かに必死にしがみつきたくなる。杭があればそこにしがみつくことで、溺れることだけは防げる。

それでも、生身の”人間”には絶対にしがみつきたくない。その先の未来が、今の私には痛いほど分かる。二人同時に溺れる。それだけだ。そんなことすら、昔の自分は分かっていなかった。

何人を引きずり込んだだろう。何人を傷付けただろう。後悔なんて言葉で括るのは、あまりにも身勝手だ。

自分が痛いからって、人を傷付けていいわけなんかないのに。”痛い”を免罪符にして柔いナイフを振り回していた私は、私という人間をぐちゃぐちゃに傷付けた両親と同じだった。あんなふうになりたくない。あの人たちのようにだけはならない。毎日、そう思っていたのに。「痛い、辛い、悲しい」と喚いてさえいれば、誰かが抱きしめてくれるんじゃないかと何処かでうっすら期待していた。

傷付けたことの方が、傷付けられた記憶よりずっと重い。未だに骨が軋むようにギシギシとした痛みが、私の奥の方で鳴っている。

愛されなかった苦しみと弊害を知ってほしいと思う。でもそれ以上に、それ故に周りに牙を剥く愚かさにも気付いてほしいと願う。

苦しんだから苦しめるなんて愚かだ。自身がほしかったものを与えた方が、100倍幸せになれる。最初からそれが出来るわけじゃない。だから、練習するんだ。泳ぎ方を少しずつ覚えるみたいに、ゆっくり、ゆっくり。一度覚えたら忘れない。ちゃんと息継ぎをしながら、自分なりの速さで泳げるようになる。

真っ黒な何かに支配されそうな時も、目の前のガラスのコップを叩き割らずに生きていけるようになる。自分より弱い何かに痛みをぶつけて、「だって私はもっと痛いから!」なんて、バカな言い訳をしなくても歩いていけるようになる。

私は泳ぎ方そのものは教えてあげられない。完全な自己流だし、私の泳ぎ方が正解かなんて誰にも分からないから。

それでも此処で、自分勝手に叫ぶんだ。

誰か一人でもいい。私の書いたものを読んで、振り上げた掌を下ろしてくれる人がいたら。その掌で、目の前の命と心を抱きしめてくれたら。泳ぎ方をちゃんと教えてくれる人を、自ら探そうと立ち上がってくれたら。

それだけを願って、この文章を書いている。

痛みを痛みで塗り替えないでほしい。優しさで上書きしたら、少しずつ何かが変わっていくから。

感情の全てをコントロールなんて出来ない。人間はロボットじゃない。そこが愛しいのだから。でもだからこそ、死ぬ気でコントロールすべき感情もあるはずなんだ。

私は断ち切る。どんなに呑まれそうになっても。便器に顔を突っ込んで苦い胃液を吐き出そうとも。それは私の愛しいものたちを、この掌と言葉で傷付けていい理由になんて、絶対にならないから。

息子のミニバス試合の朝。私はいつも大きなおにぎりを作る。目一杯、走れるように。精一杯、楽しめるように。

我が子におにぎりを作る掌は、我が子の成長を真っ直ぐに願っている。そのときに込める想いを、ぎゅっぎゅっとお米を握りながら自身に深く染み込ませる。

守りたい。育みたい。そのために産んだ。そのために大人の掌は、子どもよりも大きいのだ。

余裕がなくなると途端に見えづらくなる真実を、ちゃんと覚えていたい。だから私は明日も明後日も、息子たちが嬉しそうに頬張る表情を想像しながらおにぎりを握る。

ぎゅっ、ぎゅっという音が、台所に響く。息子たちの元気な「おはよう」が聞けるまで、あと、数時間。

お日さまがもうこんなに高い。
今日も、暑くなりそうだ。

こちらのエッセイは、noteに公開している作品をリライトしたものになります。noteで週に3~5本程度、エッセイ、小説を執筆しています。よろしければそちらも合わせて読んでいただけたら、とても嬉しいです。

ABOUT ME
碧月はる
エッセイスト/ライター。PHPスペシャルにエッセイを寄稿。『DRESS』『BadCats Weekly』等連載多数。その他メディア、noteにてコラム、インタビュー記事、小説を執筆。書くことは呼吸をすること。海と珈琲と二人の息子を愛しています。