「お母さんはなんにも分かってないよ!!」
涙を溢れさせながらそう叫んだ息子の顔は、悲しみに満ちていた。その顔を見たとき、ようやく気付いた。
分かっているふりをしていただけで、私は息子のことをなんにも分かっていなかったということに。
*
人前で我が子を褒めるのが苦手だ。それをした後でその人が立ち去った途端、周りがどんなことを言い出すのか知っているから。
「分かってないよねぇ。○○くん、実際は乱暴だし口も悪いのに」
「そうそう、うちもこの前揉めてさ~。迷惑かけられてるのに、そんなのも知らないでよく言うよね」
子どもは必要に応じてその場に合わせた顔を作る。親の前では従順でも、外では激しく自我を出している子どもがいることは否定しない。しかし、こういう台詞を聞く度に思う。迷惑かけていない子どもなんておそらくこの世に存在しないし、何なら迷惑をかけていない大人も存在しないのにな、って。
「うちの子、優しいんだよね」
「うちの子、○○が上手なんだよね」
聞いている時はニコニコしながら『そうだよねぇ』と相槌を打っているくせに、その人が背中を向けた途端に始まるヒソヒソ話。
”くだらない”
心の中で毒づくのが精一杯の私は、落ち着きのない息子に感謝しながらその場を離れる。1ヶ所で落ち着いて遊べない息子を追いかけ回すという名目が無ければ、私は多分公園に行くことそのものが苦痛でしかなかっただろう。
嫌われたくない。『あの親は……』って思われたくない。くだらないと思いながらも、次元の低い承認欲求にしがみついていた私は、人前で息子を褒めることはなかった。
「ほんと全然言うこと聞かないんだよね。落ち着きないしすぐ暴れるし泣くし、嫌になるよ」
いつものお決まりの台詞をペラペラと話す。目の前のママ達は、「そんなことないよ~」と満足気な顔をしながら返事をする。
近くには、息子がいた。彼が聞いているのを知りながら、私は『卑下』という形の暴言を息子に浴びせたのだ。
その日、家に帰ってくるなり息子は脱いだ靴を玄関に叩き付けた。
「お母さんきらい!」
「何急に。どうしたの?」
「きらい!きらいきらい!」
ショックと怒りで頭に血が上る。言ってはいけないはずの言葉が、喉元までせり上がった。…その時だった。
「お母さんはなんにも分かってないよ!!」
堪えきれなかった涙が、彼の大きな瞳から溢れていた。顔は真っ赤で、唇は震えていた。
「教えて」
ごめんねとか、抱き締めるとか、多分そういうのが先だったんだろうと今なら分かる。でも、この時私の口から転がり出たのは、こんな拙い一言だった。まだ幼稚園生だった息子は、それでも必死に自分の思いを伝えてくれた。
友達の前でけなされて悲しかったこと。すぐ泣くことをバラされて恥ずかしかったこと。お母さんが自分を嫌いなんじゃないかと思ったこと。
「なんでお母さんは家では”大好き”って言ってくれるのに、公園では”悪い子”って言うの?」
そう聞かれた時、胸の奥に爪を立てられたかと思った。ズキンとか、チクンとかじゃない。ガリッとした痛み。そしてそれは、そのまんま今日息子が味わった痛みなのだと知った。
ごめんね。
お母さんは、なんにも分かってなかった。
お友達の前であんなこと言われたら嫌だよね。お母さんが言ってることが、家と外で違うのは嫌だよね。
お母さんが周囲のくだらない同調圧力に負けて、あなたの心よりその人たちとの一瞬の関係の方を大切にしているなんて、嫌だよね。
「ごめんね」
抱き締めて、ひたすらに謝る。泣きたかったけど、それは何だか卑怯な気がして唇を噛みしめた。数秒そうしていると、背中に小さな腕が回された。
小さな腕が、優しく私の背中を上下に撫でる。「大丈夫だよ」と言いながら。
”大丈夫だよ”
息子から許された私は、その夜彼が眠った後、一人車に飛び乗った。ACIDMANの『2145年』を大音量で流しながら、海に向かって白い軽自動車を走らせる。喉の奥が引きつったみたいにびくびくして、堪えていたものが一気に溢れた。
大好きなものは、大好きと言うべきだった。こんなにも優しい息子のことを、「うちの子は優しい」と言って何が悪い。それで後ろ指を指したいなら指せばいい。離れたいなら離れればいい。
私が一番守りたかったものは、そして、守るべきものは、卒園したらおそらく関わることのない人たちとの期間限定の関係なんかじゃなかった。
息子は小学生になった。私もあの頃よりだいぶ年を取り、当時よりも図太く生きられるようになった。
しかし元来外面の良い私は、正直未だに人前で息子を褒めるのが苦手だ。でも、「息子さん、優しいよね」と言われた時は、目の前の息子を見ながら笑ってこう言う。
「ありがとう。うん、すごく優しいんだよ」
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こちらのエッセイは、noteに公開している作品をリライトしたものになります。noteで週に3~5本程度、エッセイ、小説を執筆しています。よろしければそちらも合わせて読んでいただけたら、とても嬉しいです。